指導者としての品格と価値観(若き人に贈る言葉)
漢譯: 領導人的品格與價值觀
2006年12月4日
一、はじめに
私は旧い人、旧い思想の人、旧い時代の人間です。しかし日本では李登輝に興味を持っている人が少なくありません。その理由は、李登輝が口にし、著作にして反映する日本の伝統や日本人の教養の深さは、現在の日本では既に見られないからです。
私は常に、今の若い人に何を話したらよいかと考えています。
彼らは何を欲しているのであろうか?どんな話をしたら、彼らが了解し、そして納得するのだろうか?と。
私は一九二三年、丁度日本の大正時期に生まれました。日本が台湾を統治して、既に四分の一世紀に達し、日本教育が確実に私に深い影響を与えました。
私は曾ての日本式エリート教育の方法は非常にすぐれていたと思います。教養を強く強調し、一専門学科の研究をしても、品格を重んじたことが鍵でした。歴史、哲学、芸術や科学技術各方面の学習によって、総合的な教養を養成し、進んでは国を愛し、人民を愛する心も備えなければなりません。これが即ち読書の価値です。
青少年時代の私は、思考と読書をするのが好きでした。禅にも凝って、座禅を組んだり、また、当時の環境でも大量の東西文学、哲学書に接する機会がありました。例えば、十九世紀に英国の思想家、トーマス・カーライルの著作、「衣服哲学」や「英雄および英推崇拝論」は私の好きな作品でした。カントの「純粋理性批判」と「実践理性批判」は、今でも私の重要な判断の教えとなっております。
新渡戸稲造の名著「武士道」は高等学校時代の私に、大きな影響を与えました。この書物によって、私は、私個人、或いは国家が危機存亡に直面した時、常に新たな認識を与えてくれました。又、生命の意義を検討し、如何にして価値のある生き方をすべきかを教えてくれました。
武士道は日本精神であり、これが情緒と形という美を尊ぶ個人的生活で、日本の文化を構成しています。世界に稀なる日本文化の特長です。これは中国古代の哲学者「老子」が言っている、道の真髄を、日本人は生活の中に取り入れ、実行していることです。(道可道非常道)
私の青年時代は、丁度日本で軍国主義的思想が流行していた時代でした。この時代背景は、意外にも私をして、意志力の強い、秩序を重んずる、国、公のために尽くす奉公精神を持つ人間に育てあげました。
このような精神的な訓練に少なからざる影響を受けましたので、私はこれによって自制と克己の習慣を得ました。その後私が政治に携わった時には、あらゆる誘惑にも堪え、何事も起らず、任務を終えることができました。
私がこうしたことを特に強調する理由は、一個人の人間にとって、生涯発展の中では、必ず精神的な細かい事柄から始まり、だんだん大きなことにぶつかっていって、初めて自分を充実することができるからです。
現在の若い人の学習気風は、何故か物質ばかり重視し、表面的な事柄にとらわれて、容易に抽象的概念や精神思考の能力を喪失することが多いことです。一旦重要な成長段階に入ると、もう内在の自我問題の修養はやれません。若い人の未来は国家の前途にかかっており、人々をしてその未来に関心を持たざるを得ません。
それで私は、新しい時代でも、古い価値は絶対に棄てないように努力すべきだと主張しています。哲学者オルテガは、「観念と信念」という著作に於いて、『我々が所有している世界像の大部分は先祖から受け継いだものだが、それは人間の生の営みの中で、確固たる信念の体系として作用している』と論じています。
「人心不古」という言い伝えがあります。それは古の中に価値あるものとして永遠に残るものがあります。
多くの人は十二年の間も総統の地位に就いた角度から私を見ています。或いは権力の最高峰に登った成功者として、私を定義しています。彼らは多かれ少なかれ、私が権謀術策を使ってこの地位を得たものと計算しています。こうした考え方は皆、功利主義的考えから出発したものです。
私が皆さんに話したいことは、権力は私ではありません。権力は何か困難な問題や理想的計画を執行するための道具に過ぎません。
それは一時的に人民から借りたもので、いつでも仕事が終われば返還すべきものです。「私は権力でない」と考えた主要目的は、人間は権力を手にした時、権力を振りまく快感に酔いしれて権力を弄ぶからです。私はそうしないように、「私は権力でない」と考えたのです。
私から見れば、権力の最大価値は、我々を助けて問題を解決することにあります。それが故に十二年間の総統在任中、私が弱勢の総統から実権を掌握できた総統になるまで、私の最も重要な任務は、台湾の民主化を促進することであり、この立場は始まりから今に至るまで変わっておりません。
私は人々に、「総統の任期を終えてずいぶんになりますが、現在あなたの関心は何ですか」と尋ねられることが良くあります。
私がはっきりと言えることは、「現在台湾はまだ一つの正常国家ではない。もし台湾が本当の正常国家になったら、その時、私の任務は終わり、私は全てのことから離れる」ということです。
私は重ね重ね若き人に申し上げることは、品格・教養・愛国・愛人民は、終生学習の科目です。金銭と権力は一時的なものに過ぎず、精神こそが生涯を貫いて奮闘し、追求するべきものなのです。
次に私の具体的な経験談として、自分で設定した指導者の条件について詳しくお話しましょう。
二、信仰を持ってこそ心の弱さを理解出来る
序文でいろいろと我々の持つべき考え方を述べて来ましたが、細く具体的にどうすべきかを述べる必要があると思います。先づ信仰についてお話しましょう。
指導者になることは、容易なことではありません、指導する団体の大小を問わず、基本的には一群の特長ある、又、違った考え方を持った人を従えて、協力一致して同じ目標に向かって前進しなければなりません。これは大きな挑戦でしょう。管理学の大家ピータードラツカーが言っている様に、知識のある人ほど、管理しにくいのです。しかし知識のある人を使うことは、指導者にとって目標を達する最良の方法でもあります。指導者は其他の専業従事者の様に、ただ側に立って顧問や幕僚をやれば良いという訳にはいきません。指導者はいつでも最前線に立って、随時決策をしなければならず、決策の方向を間違えたら、又その失敗のリスクをも負わなけなければなりません。
その圧力の重さは思いもできないものがあります。映画(猟殺U│571)に出てくる、老オフィサーの指導者について語った一節に、『指導者は絶対に「私は知らない」と云うことを云ってはならない。この事によって全部の人を死なす結果になるからだ。指導者は必ず答えを持って問題に面していかなければならない』とありますが、このセリフには非常に意義深いものがあります。
私は曾って権力の最高峰に立たされた経験を持っている者ですが、その時、何を得られたか、又現在及び将来の指導者になるべき人々に、何らかの忠告や建議を与えられないかについてお話をしましょう。
私は総統在任中、妻や息子の嫁、孫娘と一緒に淡水の近くの観音山に登ったことがあります。大変苦労して一キロ前後の坂道を登り、ようやく山頂につくと、山頂は大変狭く、四方はすべて険しい崖でした。実際、山頂に立って周りを見渡すと、じっと動かないでいても、自分が非常に危険な場所に立っているのだと感じ、恐怖で思わずぞっとしました。もちろん、そうした場所では、自分自身以外に頼れるものは何もありません。中国の歴代の皇帝は、自らを「寡人」と称しました。総統になるというのは、まさに観音山の頂上に立っているようなもので、誰も助けてはくれません。そうした時に気力や勇気を与えてくれるのは、われわれが信仰する神だけなのです。どのような神かは関係ありません。私はクリスチャンなのでイエス・キリストを信仰していますが、他の宗教を信仰しているなら、自分の信じる神に祈ればよいのです。人が自分の力で生きるには、自らの信念や心の弱さを十分理解する必要があります。そして、これらを理解するには信仰が不可欠なのです。私は、神と政治を結びつけたいわけではなく、ただ、心の安寧を求めて神を信仰しているのです。自らの倫理観を貫き、能力を十分発揮するには、信仰がぜひとも必要です。何か決断を下すときには、自己の存在を超越した何かをつねに意識することです。こうした意識は、自分の力を十分に発揮するためには非常に重要です。
指導者は、しばしば打撃を受け、また多くの辛い思いもします。このため、強い信仰が必要なのです。私の経験から言うと、政治において信仰は唯一の助けとなります。
三、国のために考え、権力を放棄することを惜しまない
私の政治信念は、「天下為公(天下は公のため)」です。いわゆる「公」とは国家を指します。二〇〇〇年三月の総統選挙に私が出馬しなかったのは、一日も早く民主を台湾に根付かせねばならないという気持ちからでした。これは当面の急務であり、すべて台湾のためを思ってのことです。私がそうすれば、台湾が真に民主を実施していることを国内外にアピールできます。国際社会から排除され中国の軍事的威嚇を受ける台湾にとって、これは最高の「さよならホームラン」であったと言えるでしょう。政権の平和的移行は空前の快挙であり、台湾だけでなく、中国の歴史から見てもはじめてのことでした。そのうえ、政権は、国民党から対立する民進党の手に渡されました。私がこのとき出馬しなかったのは、国家のためであって、一党の利益を考えたからではありません。政治家としては、このように国のため、いつでも権力を手放す覚悟が必要なのです。 一九九四年に司馬遼太郎さんと対談したとき、司馬さんは私に、『李さん、あなたのためを思うと、次の総統選挙には出馬しないほうがいい。』と忠告しました。しかし「台湾紀行」にも登場する蔡焜燦さんは司馬さんに、『そうではありません。今の台湾は、李登輝さんにもう一期やってもらわなければならない。民主がしっかり固まってから辞職しても遅くないでしょう』と言いました。
司馬さんは、私のためを思い、私への友情からこのように忠告してくれたのだと思います。或いは私のような学者が政界にとどまるのは不思議な事だと思われたのでしょう。司馬さんには、私が出馬すれば、否応なく政治の好ましくない局面に巻き込まれてしまうと分かっていたのです。しかし、私は司馬さんの好意に反して、一九九六年三月に行われた史上初の総統直接選挙に出馬しました。
私がこのようにしたのは、台湾の民主化を更に一歩進めるには、自分がもう一期務めるしかないと思ったからです。節を守るのは重要なことですが、私には国民に対する使命感があり、この使命感を果たすまでは肩の荷を下ろすことはできませんでした。二〇〇〇年の総統選挙に出馬しなかったのは、主にこの点に関係しています。
司馬さんは、『権力は一人ひとりに与えられた力ではなく、制度から敷衍された客観的な力なのだ』とも述べておられます。権力は、必要な時にだけ取り出して使うことができるものです。事に当たるには権力が不可欠ですが、いつでもそれを手放す覚悟がなくてはなりません。つまり、権力とは「借りもの」なのです。私は、ひたすら権力にしがみつく政治家は愚かだと思います。
四、私情に流されず、明快に処理をする
部下に関する問題についてですが、選挙で我々を支持してくれた人に対しては、当然ながら、当選後にそれに報いたいものです。しかし、これには限度があります。選挙は選挙であり、国政は国政であって、まったく別物なのです。選挙が終ったら、かれらにみだりに指示を出したり、あまり頼りすぎたりしてはならないのです。関係を断ち切るべき時には、明快にきっぱりと断つべきです。私は総統になる前、台北市長、台湾省主席、副総統などを歴任しましたが、その間私を補佐していた秘書がいました。彼は、あらゆる面で非常に優秀で、筆も立ち、大変役に立つ人材でしたが、私は総統になった後、その秘書を辞めさせました。彼が、国家に関わるような問題を起こしたからです。私は、彼に対して情はありましたが、それに流される訳にはいきませんでした。
また、私は父の友人にさえ、むやみに会おうとはしませんでした。父は県会議員を務めたことがあり、地元の人々と親密な関係を持っていました。しかし、私は父に、決して誰かを推薦したりしないよう伝えました。実際、多くの人が父を通して、人事や工事などのとりなしを頼んできましたが、私はある晩、父に言ったのです。「お父さんが議員であった間、たくさんの人に助けられたことは分かっていますが、私はかれらの頼みごとを聞くつもりはありません。ですから、人を紹介したりしないでください」と。それ以来、こうした事態は一度も起こりませんでした。父が亡くなる前、私は、「あの晩から一度も人を紹介してこなかった。本当にありがとう。おかげで、私は安心して職務に当たることができました」と父に心から感謝しました。
多くの人が、政治家になったら、多少は汚い手を使わないわけにはいかないと考えています。政治家は、自らの政策を実践するために権力や後ろ盾、資金が必要で、これらを手にするためには、さまざまな利益争いの中に巻きこまれざるを得ず、最初は、国家に忠誠であっても、いったん政治の世界に足を踏み入れると、だんだん考えが変わってしまうのです。周囲の人が冷ややかな目で見るなか、政治家は、一方で泥を飲みながらもう一方でそれを吐き出すような状況で、自ら潔白でいるのは、本当に天に上るより難しいことです。しかし、それでも原則を堅持して、努力しなければなりません。
以上に述べたり行ったりしたことは、あるいは「薄情だ」と批判されるかもしれません。私も、多くの人から非難を浴びました。しかし、厳正な姿勢で臨まなければ、理想的な政治を進めることなどできないでしょう。
五、堅固な意志で「悪役」を演じる
二〇〇〇年の政権移行の際、メディアは、私の妻が五十四ケースの米ドル(計八千五百万ドル)を持って国外に逃げたと報道しました。この件について、私の態度は非常にきっぱりしていました。これは、まったくのでたらめだったので、私はすでに政権から身を引いていましたが、これが最後かもしれないと思い、正義に訴えないわけにはいかないと考えて裁判所に告訴しました。それまで、私はこうしたスキャンダルをいちいち気にはしていませんでしたが、この時は妻まで巻きこまれたので、告訴せずにはいられなかったのです。この事件では、すでに相手方に有罪判決が出ています。同様の問題は数え切れないほどあって、十二年の総統在任中はもちろん、現在でもこうした状況はなくなっていません。
私は本来、こうした面に大変注意を払っており、先ほども申しましたが、父親にさえ、とりなしを頼まないようと言っておりました。私は、収賄して法を曲げるようなことは決してしません。それぐらいなら、自分の財産も自分名義で登記しない方を選びます。我が家の田舎の土地は、贈与税を払って孫娘の名義で登記していますし、大渓や台北の家は私の財産ではなく、毎月の給料は私の名義で受け取っていますが、全部妻に渡して管理させています。このため、私には昔から、家もなければ株券もなく、だからこそ、職務を遂行しやすかったのです。
賄賂を贈ろうとやって来た人もいましたが、私は絶対に受け取りませんでした。実際のところ、とくに地方選挙や立法委員選挙の時にはお金を持って来る人が多かったのですが、「こんなことをされたら困る」と言って、みんな持ち帰らせました。日本の政界には派閥がありますが、国民党には派閥がないので、その点では処理しやすかったのです。資金の潤沢な国民党に身を置き、政治家として資金面で心配がないというのは、大変有利であったかもしれません。党員が選挙に出馬する時も、私は資金調達で悩むことはありませんでした。私が直接資金の問題に関わったわけではなく、県市長選挙や立法委員選挙などに誰が出馬しようとも、選挙資金の分配について、私が決定したり管理する必要はなかったのです。もし、党がどの候補者にどのくらい資金援助するのか、私がはっきり把握していたら、「なぜそんなに差があるのか」などと聞いて、いろいろ問題が出かねないため、口出ししないようにしていました。私自身が出馬した時も、資金問題には関わらず、すべてを選挙総幹事に委ね、財務責任者にまかせていましたから、私には金銭にかかわる問題は一切ありませんでした。
私が演じていた役割は、いわゆる「ブルドーザー」で、具体的に言うと、ある県の県長選挙で候補者が複数いた場合に、調整役となって、「あなたは今回は出ないほうがいい」、「あちらに譲ってくれ」、「ほかの選挙に出ろ」、「相互協力こそ有利だ」などとアドバイスし、あらゆる手段で候補者を説得することでした。これこそ私の主要な任務で、つまり「悪役」を演じるのです。誰かがこの役を演じなければなりません。党が公認候補の選び方で何度も失敗しているのは、主に責任者が悪役になって人の恨みを買うのを避けた結果なのです。
六、カリスマ性と人気
前述の四点では、指導者の倫理上の規範と理解に関する問題をお話しました。しかし、指導者は、国民の圧倒的な支持を得て権力を掌握したとしても、国民から見放されるという最悪の事態にも考えが及ばなければなりません。マキャベリの『君主論』は、「民衆を基盤とする人は、政治の基礎を砂の上に築くように危険だ」と述べています。唐の太宗の功臣、魏徴も「君主とは舟であり、人民は水である。水は舟を浮かべるが、またこれを転覆させることもできる」と言っています。王朝であれ帝国であれ、また共和国であれ民主国家であれ、これらはおそらく共通することでしょう。よって、指導者は、国家と国民に対して忠誠心を持ち、あらゆる面で謙虚でなければならないのです。
カリスマ性は、指導者や政治家にとって大変重要な概念です。カリスマ性のある指導者は、超人的かつ非日常的な素質を持ち、大衆を魅了し熱狂的な支持を得ることができます。カリスマ的な指導者は、大衆を動員するために習慣上の手続きや合理的な判断といった方式を採る必要はなく、迅速に危機的状況に対応できます。この点において、カリスマ的な指導者は、たいして智恵を用いることなく、秩序的な感情を創造することができます。歴史上、多くの英雄や指導者がこうした煽動的な行動や力を持ち、多くの政治問題を解決してきました。カリスマ的な指導者は、長期的な政治生命を保つことはできません。カリスマの力は人民の感情であり、一種の幻想なのです。人民の希望がかなえられない時、幻想はまたたく間に消え去ります。大衆の幻想は、指導者のカリスマ的な力のほか、メディアの影響を受けます。偶像性を失った指導者や政治家は、容易に大衆から見捨てられる対象となるのです。
指導者は、「権謀術数」を用いて政府の役人を統制したり、国民をコントロールしたり、メディアを利用してカリスマ的な力を作り人気を高めようなどと考えたりすべきではありません。
七、結び
さて、私の話はこのへんにいたしましょう。皆さんは将来、国家や社会の優秀な指導者となる方々です。私の話を聞いて、指導者として、抱負や理想を実現し、国家や社会、民衆のためにより多くのことを成し遂げるということを理解していただけたでしょう。しかし、指導者はまた、ほかの人よりも多くのプレッシャーを受け、また多くの孤独にも耐えねばならないのです。
これで、本日の講演を終らせて頂きます。ご静聴ありがとうございました。