昭和からの遺言

李登輝先生接受週刊朝日專訪

2008年7月22日

  私は大正12(1923)年生まれで、いま85歳だから、一生のほとんどを昭和の時代とともに過ごしてきたんだね。

  昭和というのは、日本が大国を目指す過程で大きな過ちを犯した時代なんだ。国の指導者が、人民を巻き込んで、あの大きな戦争に突入し、何百万人という人民を死なせた。あの時代の指導者、軍人よりも首相を始め政治の中枢にいた人たちは、非常に問題があったと思っておるよ。

  実は最近、山崎豊子さんの「運命の人」の沖縄学徒兵の話を読みましてね、感無量だった。沖縄で組織された鉄血勤皇隊、こんなのは台湾でも作ったんだよ。米軍は台湾に上陸しなかったから、沖縄のような大変な目に遭わなかったけど、人民にあれだけの犠牲を強いた指導者は、それなりの責任を負わなければならない。

  李登輝氏は大正12(1923)、日本統治下の台湾・台北県に生まれた。父親の李金龍は日本の警察学校を卒業した官吏で、李登輝氏は比較的に裕福な家庭環境で育った。旧制台北高等学校を卒業後の昭和18(43)年、京都帝国大学 農学部に進学。翌19(44)年に学 徒志願兵として陸軍に入隊した。

  台湾総督府は明治28(1895)年4月に開庁しましたが、3カ月後の7月には国語学校が開校されました。明治政府は植民地統治を、まず教育から始めたんだね。これは世界にも例のない、すごいことです。

  この公教育を通じて台湾人は、数学、物理、化学、地理、歴史、社会など新しい知識を吸収し、徐々に儒家や科挙といった伝統の束縛から抜け出すことができたんだね。考えてごらんなさいよ。それまで台湾人が教わっていたのは四書五教だけだったんだから。

  明治期のこの教育によって、台湾人は世界の新知識や思想の潮流を知るようになり、近代的な国民意識が養成されました。大正14(1923)年には高等学校が、昭和3年には大学が創立され、日本の大学に進学する人も出てきて、台湾社会の変化は日を追って速さを増し、「新台湾人」が作られていったんだな。

  私は、このような時代に生を受けて、長期にわたって正式な日本教育を受けることになったんです。一方で、警察官僚という職業柄、父は転勤が多く、私は小学校の6年間で4回も転校しました。したがってなかなか友達ができず、ひとり読書やスケッチで時間をつぶすことが多くなりました。当然のこと、少年期のこうした過ごし方は私を内向的で、我の強い人間にしてしまったようです。激しい自我の目覚めに続いて、心の内に起こってきたのは、「人間とは何か」「私は誰だ」という自問自答でした。
  
  内向的かつ多感な李少年を案じて、母親の江錦が「お前は情熱的だが頑固すぎるところがある。もう少し理性的になってはどうか」と諭したのは、中学から高校にかけてのことだ。李少年はこの言葉で自身の排他性に気づき、自我を より理性的に分析する方向に読書傾向を変えていく。鈴木大雪「禅と日本の文化」、西田幾太郎「禅の研究」、そして新渡戸稲造の「武士道」。日本人の精神的な文化・伝統に触れたこの時期の読書体験は、まさに豊饒の時だったという。

  結局、私がたどりついた結論は「私は私でない私」ということでした。自我を排して、客観的な立場から問題にアプローチするという、私の基本的な姿勢が形成されたんだね。

  もちろん、思想書や哲学書ばかり読んでいたわけじゃない。京都大学に入るために初めて日本に行ったときは、宮本武蔵が決闘した一乗寺の下り松や森鴎外の高瀬川など小説の舞台を訪ねたり、本能寺で織田信長と森欄丸が明智光秀の軍勢にどのように応戦したのか想像したり、京阪神の史跡はほぼ見て回ったよ。

  だけど大学に入ってすぐに志願入隊しました。通名・岩里正雄としてね。歩兵になって、戦地をさまよえば、人間の「生と死」の問題に真剣に向き合えると思ったんですよ。でも、大阪の第四師団配属後、すぐに台湾の高雄の高射砲部隊に派遣されてね。高射砲部隊ってのは、爆撃がなければ暇なもので、図書室にあったから、日本では禁書だったレマルクの「西部戦線異状なし」なんて読んでいたね。

  私は、日本は中国大陸ぐらいには勝つと思っていた。だけど対米開戦して、さらに南はソロモン、ガタルカナル、ニューギニア、西はビルマへと戦線を拡大していって、作戦本部はいったい兵器の生産能力や戦争遂行能力をどう考えているのかと疑問に思ったね。

  これは台湾と関係するんだけど、台湾では大正末期あたりに蓬莱米という米ができて、日本の農村が疲弊していたときにこの米を入れたんだね。その結果、台湾産の日本米が内地の農民をさらに苦しめることになったんだ。政治家と役人と財閥が結託した農政が農民を苦境に追い込んだわけで、農村出身の陸海軍将校が中心になって五・一五事件(昭和7年)、二・二六事件(昭和11年)という反乱が起きたのは当然のことなんだね。もし私が当時の指導者だったら、第一に農村改革に着手したと思う。

  結局、日本国内で困難を解決することなく、中国大陸の資源に目を向けて、さらに大きな困難を背負い込むことになっていった。

  戦前の時代には、長い目で将来の日本を見渡すことのできる指導者はいなかった気がするんだね。
  
  岩里正雄陸軍少尉こと李登輝氏は名古屋城で終戦を迎えた。いったん京都大学に復学したが中退して台湾大学に編入し、卒業後、昭和27(52)年までの間、大学講師 を務める。その後、二度にわたってアメリカに留学し、昭和43(68)年にコーネル大学大学院農業経 済学博士課程修了。昭和46(71)年に国民党に入党、翌47(72)年、蒋経国総統に抜擢され、専門である農業担当の行政院政務委員(無任所相)として入閣し、本格的な政治活動を開始した。

  戦争が終わって私たちは、早く祖国台湾に帰って、台湾建設のためにひと肌脱いで奮闘しようという気持ちだった。ところが中国大陸から逃避してきていた国民党政府は、日本は戦争に負けて台湾を捨てて、中国に返したくらいに思っていたんだ。祖国復帰だなんて宣伝して統治をしようとするんだけど、大陸から来た官吏は汚職はするし、インフレが起きて物価は上がり、失業も増えるというでたらめぶりで、台湾は戦後3年もたたないうちにめちゃくちゃになっちゃった。

  日本の植民地支配から解放されてまもない昭和22(47)年2月27日、台北市内で国民党政府の官憲が、ヤミたばこを売った本省人の寡婦を摘発する際に暴行を加えたうえ、集まった市民の一人を射殺する事件が起きた。翌28日、抗議デモへの発砲で騒動は全土へ広が り、中国本土にいた蒋介石が軍を上陸させ、反政府活動に徹底的な弾圧を加えた(二・二八事件)。その後暴動の関係者だけではなく、無関係の知識層らへの逮捕・虐殺が始まり、犠牲者は2万人以上にのぼったとされる。事件発生か ら40年間は戒厳令が敷かれ、事件はタブーとされて語る事も許されなかった。

  昔は日本という外来政権に治められ、戦後になって自国になったと思ったら、日本の統治時代より文明度も低く文化も遅れた連中がやってきて、台湾を治めたんだ。日本人という異族の奴隷のような状態だったのが、今度は同族の奴隷みたいになってきた。結局、二・二八事件が起きて、台湾はこのような中国人に統治されるべきではない、自分たちでやっていかなくてはならないという自覚が個々に芽生えて、台湾人意識が発生したんだ。いま台湾が民主化されている淵源は、ここにあるんだね。

  昭和53(78)年から台北市長を務め、56(81)年に台湾省政府主席に就任。59(84)年、蒋経国総統(当時)のもとで副総統に指名された。平成元(88)年、蒋経国 総統の死去にともなって台湾人として初めて総統に就任。国民党及び軍事独裁の政治体制の民主化を進め、平成8(96)年には台湾初の総統直接選挙を実施し、当選した。

  選挙に出馬したのは、台湾の民主化をさらに一歩進めるには、自分がもう一期務めるしかないと思ったからですよ。次の総統選挙には出馬しなかったのも、台湾の民主化のためでした。平和的な政権移行は中国の歴史からみても初めてのことですから、台湾の民主化を国内外にアピールできると考えたのです。権力とは、困難な問題の解決や、理想を実現するために一時的に人民から借りた道具に過ぎず、仕事が終わればいつでも返還しなくてはいけません。私を権力の最高峰に登った成功者として見る人もいますが、権力は私ではないのです。

  外交面では、「ひとつの中国」による統一を迫る中国に対し、「台湾と中国は特殊な国と国との関係」と、いわゆる二国論を展開する一方、中国を含めて正式な国交のない国とも経済交流などによる実質外交を通じて、台湾の存在を世界にアピールした。

  平成6(94)年に司馬遼太郎さんが「街道を行く」の取材で台湾にいらしてね、その年のうちにまたいらして対談したんです。そのときに対談のテーマは何がいいのかと家内に相談したら、「台湾人に生まれた悲哀」にしましょう、と。

  それで司馬先生に話したのは、400年以上の歴史を持つ台湾の人々はいま、自分の国も持っていなければ、自分の政府も持っていない。国のために力を尽くすことすらできない悲哀を抱えているんだということでした。

  サンフランシスコ条約の第三章第一項は、「台湾の放棄」でした。日本に対し、台湾は放棄しろという命令だけが書いてあって、何人の国なのか、どこに帰属するのかを書いておらず、いまだに不明瞭なままでしょ。国際連合に入ろうとしたら、台湾は国じゃないという。中華民国として加盟したいといったら、中華民国も国じゃない、と。中国は、台湾は中華人民共和国の一部だと主張し、アメリカはそうじゃないという。それじゃ台湾は何なのだと。台湾という地域は不明瞭なままにおかれ、日本も黙っているんだね。

  日中平和友好条約が調印された昭和47(72)年は、私は行政院政務委員(無任所相)をしていました。

  まあ、そのニュースを耳にしても、特別な感覚は持たなかったような気がするね。なぜなら、いずれ必ずそうなるだろうというのが、我々の観測でしたからね。

  本当は中日和約(日中条約)以前も以後も、台湾の帰属については日本が責任を持たなくてはいけない。ところが日本の法務省は、台湾人は中国籍だと勝手に規定してしまっている。官僚の上に立つ政治指導者も判断を停止している。判断すると、中国とゴタゴタが起きて、責任が生じるからね。いまの中国大陸と対抗できる人材が日本にはいないんだ。
  
  李登輝氏が戦後、再び日本の地 を踏んだのは平成13(2001)年のことである。李氏の訪日は「一つの中国」の原則に反するとして中国が反発したため、受け入れの可否を巡って日本政府の対応は 揺れたが、持病の心臓病治療のための「人道的な配慮」から入国が認められた。

  理由はわからないんだけど、私が日本へ行くことを、日本の外務省が怖がってね(笑)。中国が変な顔をしたっていいじゃないか(笑)。心臓病の治療の時も、外務大臣が嫌なことを言ってね。私はそんなに気にしていない人だけど……。

  慈愛の心や礼儀正しさ、勇気や忠誠心といった新渡戸稲造先生が「武士道」で説いた日本的精神は、いったいどこにいってしまったんだろうね。

  平成の時代に入ってもう年ですか。日本も台湾もグローバライゼーションの波にもまれて、五里霧中だね。こういう時代にこそ、物事を大局的に捉え、国の進むべき方向を決定づける政治家が必要です。

  昔のね、後藤新平のような人間が出てきてない。台湾総督府民政長官として、清朝統治下ではなしえなかった台湾の開発発展に身を投じた後藤は、まさに仕事のために権力を使いました。たとえ大風呂敷と笑われようとも、彼みたいな人間がどうしても欲しいんだよ。今の時期に。 

(刊載於2008-11/14週刊報)